こんにちは、さとりです。
28年間生きてきて、たどり着いた私の1つの価値観。
それは、「人間関係は合わせ鏡」です。
別の表現に「類は友を呼ぶ」とかもありますが。
「人間関係は合わせ鏡」も、そんな感じの意味合いです。
少し、自分の考えを整理したいと思います。
■ 「愚痴」
みんな、友人や恋人、配偶者の愚痴を言う。
私は今まで生きてきて、愚痴を言わない人に出会ったことが
ほとんどない。
多かれ少なかれ、そりゃ誰にでもあるよな、と思う。
人に不満はなくても、世の中、とかにね。
私は、人に自分の話をベラベラ話してスッキリする、
というタイプではないのだが、
昔は身近な人、つまり恋人や配偶者の悪口は結構言っていた気がする。
でも、身近な人の悪口も、完全にやめた。
「人間関係は合わせ鏡」という考え方に気がついたからである。
■ 「愚痴」の違和感の正体
友人Aは言う。「旦那がさ…」
友人Bは言う。「彼氏がさ…」
友人Cは言う。「友達がさ…」
分かる。とても分かる。共感はする。が、
おいおいお前ら、自分はどうなんだ?
これが、私が愚痴に感じた違和感の正体。
人は、人の悪口を言うときに、
「自分のことはさておき、」なことが結構多い。
(まあ、私を含め人間とはそういう生き物なのかもしれない。)
そして大抵、人の悪口を言う人というのは
人からも確実に言われているものだ。
もちろん完璧な人間なんていないし、
「好き」「嫌い」という感情や相性も影響するし、
悪口を言われない人なんていないのだけれど。
そして大抵、人の悪口を聞かされて気分が良くなるということは
あまりない。
(相談されて嬉しい人はいるかもしれないが。)
なので私は、信頼できる人に相談することはあっても、
人の悪口を人に話すということを完全にやめたのだ。
自分が「自分はさておき、」な人間になるのが嫌だったからだ。
ちなみに、
信頼できる人というのは、
友人ではなく、自分の今後の人生にあまり関係のない人であることが多い。
客観的な意見をもらいやすいし、妙な責任や気まずさも発生しないからだ。
■ 自分の「程度」が相手の「程度」
今回の話は言語化がかなり難しく、正確に表現できる自信がない。
が、この際なのでしてみる。(もう少々駄文にお付き合いください。)
20代も後半になると、付き合う友人が変わってくることを経験する。
将来なにかしらのパートナーになりそう(自分がなれそう)だったり、
一緒にいると元気や刺激をもらえたり、
穏やかな気持ちになれたり、
とにかく自分にとってプラスになる関係を私は求めている気がする。
そして、まわりにいる人たちも、
そういった考えをもつ人たちのような気がしている。
関係が良好に続くときというのは、
自分が相手に求めるもの、相手が自分に求めるもの、
自分が相手に与えられるもの、相手が自分に与えてくれるもの
のバランスが合っているときだけだと思う。
「求めるもの」「与えてくれるもの」ばかりに気を取られがちだが、
「与えられるもの」「求められているもの」はどうだろうか?
相手は、自分を映す鏡だ。
相手は自分以上でも以下でもないし、
自分も相手以上でも以下でもない。
そうやって、本当の意味で「対等」に向き合っていかないと、
いずれどこかで破綻する。無理が生じる。苦しくなる。
でも、最初からうまくいくことなんてない。失敗だってする。
ああ違うな、と思うこともある。それでいい、軌道修正すればいい。
自分もどんどん変わるしね。
ただし、相手が自分と同じように変わっていくとは限らないので、
そのあたりはうまくやっていかないといけない。(雑)
■ さいごに
この考え方は、婚活や恋人探しに大いに活用できるのではないかと思う。
なにかと相手に求めがちの人は、
相手が求めているものや自分が与えられるものにも
目を向けた方がいいと思う。
(自分にはこんな相手がふさわしい!と信じて疑わない人には一生響かないけど。)
「条件」ばかりを求めて、
たとえそれで結婚できたとしても、
その相手はあなたの「鏡」なのだから、
きっと同じように求めてくるぞ、「条件」を。
じゃあどうしたらいいの?
そこのすり合わせってどうするの?
が、未だに見つかっていないのですが、
結局は「魂のレベル」がお互いを引き合わせるんじゃないかと思います。
世の中は同じ程度の人間同士がくっつくようにできている気がします。
魂のレベルが合うなら、相手がどんなスペックでも
うまくいくんじゃないかと思います。
というより、スペックなんかに惑わされている場合ではない。
心身ともに自分を磨いて、魂のレベルを引き上げていきたいものですね。
そう、思いました。
さとり
2022/10/06 お昼どき